美しいデンドロビュームで世界中の窓辺を飾りたい
それはたった一棟の小さな温室からのスタートでした。
戦後まもない頃、やがて西欧風の生活様式が一般化し、日本でも家庭に花が取り入れられる時代がきっと来ると予感した山本二郎(当時24歳)は洋ランの一種デンドロビューム栽培へ本格的に着手したのです。
営利作物として品種改良を志し、いずれくるであろう大量消費時代を見据え地道な研究と多大な努力の末、色彩の優れたデンドロビュームとして多くの品種改良に成功し大量生産が可能な組織培養法の確立、最適地での国際分業体制での生産により世界各国への安価に供給可能にする等、洋ラン業界を常にリードし続けました。
その改良された品種の優秀さは世界の市場にも認められ、「Yamamoto Type」「Yamamoto Dendrobium」という名称で、ひとつの独立したランのグループであるかのごとく呼ばれるまでに至りました。 今や欧米諸国で栽培されている品種の80パーセントが山本二郎により作出された新品種で占められています。
山本二郎が現在までに交配した数は既に4000組を超え、作出された新品種の多くが世界中の園芸ファンを魅了している。すべてのランの品種が正式に登録される英国王室園芸協会(RHS)のサンダーズリストには600品種を超えるJ.Yamamoto(山本二郎)の名が記されており、100年以上にわたるノビルタイプデンドロビュームの育種改良の歴史の後半は山本二郎によって築かれて来たといっても過言ではなく、これは世界に誇れる偉大な業績である。
自らの作出したデンドロビュームで「世界中の窓辺を飾りたい」という彼の願いは現実のものとなったのです。
デンドロビュームとの出会い
試行錯誤の日々
岡山市浜野の農家に8人兄弟の末っ子として生まれた山本二郎は旧制中学の商業科で学び、将来は銀行員を目指していたが、跡継ぎの兄が沖縄で戦死したため、家業の農業を継ぐこととなった。
食糧難の当時、米や麦などを作ってさえいれば安定した時代ではありましたが、自分の長い将来を思うとき、「果たしてこのままでいいのか。一生こういう生活を続けて後悔しないのか。」割り切れぬ何かが彼の心の中にはいつも引っかかっていました。
将来性ある農業とは何か、そんな試行錯誤が続きましたが、ある時たまの休みに見に行く洋画の中にそのヒントを見いだしました。惨めな敗戦、生きていくだけで精一杯の当時の日本にはない、夢のような生活が外国の映画の中には映し出されています。きれいな部屋、そしてそのテーブルの上には美しい花が飾られています。「今は日本も食糧難で、米や麦さえ作っていればよいが、いずれ復興してくれば生活の中に花を取り入れ、飾る時代がやってくるに違いない。」自分が進むべき方向が垣間見えたような気がしました。
(※写真:24歳の時、家族とともに撮影。一番左が山本二郎、中央は父、重太郎。)
運命の出会い
1951年(昭和26年) やがて運命の出会いが訪れました。ある日、愛読雑誌であった「リーダーズダイジェスト」の表紙に載った、少女のもつ花の美しさに、天の啓示とも言うべき大変な衝撃を受けたのです。表紙説明にあった「花の女王カトレア」から、洋らんという存在を知ります。「暮らしが豊になれば人々は心に潤いを与える花を求める。それはこんな花に違いない。」そう胸に響くものがあったと言います。
昭和20年代半ばといえば洋ランはとても珍しい花で高価なものでした。洋ランを求めて岡山中の花屋を捜し歩き、ついに、岡山の繁華街の花屋さんで、洋ランの一種デンドロビュームが1鉢販売されているのを発見したのです。30cmくらいの細い茎に、紅紫色の中輪花が数輪咲いていました。今の品種とは較べるべきものもありませんが、当時の彼の目には素晴らしく美しく映ったようです。しかしながら、とても手が出せるような価格ではなかったのでした。それでも、仕事を終えては毎日のようにその店まで自転車で通って眺めていたといいます。一週間もしたら花がしおれてきました。どうせ買わない冷やかしの客と見ていた店の主人も、その熱心さに、花が終わったその株を半額にして譲ってくれることになりました。半額とはいえ相当な金額でしたが、手に入れることができた喜びはたいへんなものだったようです。
品種ラベルさえついていなかったその名もないデンドロビュームは花屋の名前から「ハルミ」と名づけました。縁側にリンゴ箱を置き、ひよこ電球で温度が保てるようにしてその鉢を入れ、夜は箱に毛布を被せたりしてそれは大切に育てたということです。しかし、知識もなく情報もなかった当時、彼の望むような生育はしなかったであろうということは想像に難くありません。その後3年経っても花が付かなかったと言います。
デンドロビュームを花き産業の対象として考えはじめたのはそれから間もなくのことでした。
(※写真:リーダーズ・ダイジェスト1951年6月号の表紙) |
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苦難続きのデンドロビューム栽培
小さな温室からのスタート
将来の目標を洋ランデンドロビュームの栽培に絞った山本二郎は1952年(昭和27年)、24歳で山本デンドロビューム園を設立します。わずか4坪の木造の小さな温室からのスタートでした。
とはいえ洋ラン栽培で生計が成り立つわけではなく、自宅の本業である米、麦、い草づくりのかたわらの栽培でした。より良い品種を求め、なけなしのお金を貯めて、東京の株市(業者の交換会)に出かけるようになりました。岡山駅まで、自転車に妻、聡子と二人乗りで出て、12時間かけて鈍行で上京するのでした。
当時のランの世界は、まさに貴族趣味の世界、金持ちの道楽の世界であって、田舎の農家の若者が首を突っ込むようなところではありませんでした。1年以上かけて貯めたお金でも、やっと小さな出来損ないのような株が手に入るかどうかという高額な花、洋らん。
将来を夢見て、悪いと思いつつ米作りの研修と父親に嘘をついてまでも上京し、こつこつ集めた株から栽培が始まったのでした。
(※写真:地道に集めた当時のデンドロビューム。)
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父の反対と業界からの反発
生計を立てることで精一杯のこの頃、温室にこもっては洋ラン栽培に没頭する山本二郎を彼の父は快く思っていませんでした。洋ラン、ましてデンドロビュームという名前すら知られていないこの時代、小さな温室で何やら栽培している彼の町内での評判も良いものではありませんでした。
業を煮やした父親に幾度となく温室を壊されそうになり、その都度母親にとりなしてもらう日々が続きました。
また洋ラン業界に入りたての彼に対し、業界からの反発も激しかったと言います。 「美味しいものは誰でも食べたい。美しいものは誰でも眺めたい。」こういう信念に基づく山本二郎は、高価なランを大量生産して誰にでも気軽に買えるようにしたいと思うようになります。しかし、この考えが当時のランの業界の人たちの逆鱗に触れることとなります。ごく一部の特権階級の間で希少価値を珍重して成り立っていた世界に真っ向から戦いを挑むようなことを、しかも田舎の農家の若造が言うのですから、時代背景から考えても理解されないのもやむを得なかったのかも知れません。当時のランは、趣味性で言うならともかく、園芸作物として扱うにはまだまだ問題がありました。
周囲の反発に逆らうように山本二郎は鑑賞価値や花保ちなど、営利作物としての性質を高めるための品種改良にも着手しました。やがて、その作出した新品種を客観的な評価を得るべく、東京の展示会へ出品するようになるのですが、「高価なランを大量生産して大衆化する。」という考えが気に入らないということで、彼の出品物の前は審査員が素通りして審査さえされないという、無視というか、あからさまないやがらせともいうべき扱いが長い間続いたといいます。
(※写真:育種を手がけた最初の頃。試行錯誤と失敗の連続であった。) |
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品種改良の長い道のり
4倍体の発見と改良の目標
1957年(昭和31年)、商業学校出身で育種に関して素人同然の山本二郎は本格的に育種改良に着手しました。しかし、始めてすぐに彼の前には難題が山積となりました。
当時の洋ランは、そのほとんどが趣味者の対象として扱われ、コンテスト入賞の条件となる花型と色彩だけが重要視されていましたが、洋ランを花き産業として発展させるには、それ以外に草姿、花保ち、輸送に耐える花梗の丈夫さ、色彩の変化など数多くの改良が必要なことに気づきました。
しかも育種改良のためには交配してできた種を無菌培養で発芽させ、開花させるまでには5年の歳月がかかったのです。しかも5年も待ち望んだその結果得られた花は彼が思い描いたようなすばらしい花ではありませんでした。ここで改めて自身が踏み入れた育種改良という途方もなく先の見えない長く険しい道程に気がつくのでした。
ちょうどこの頃、アメリカでシンビジュームの交配育種に4倍体品種を用い、目覚ましい成果をあげたことを知った彼はデンドロビュームにも4倍体品種があるのではないかと考え、調査を開始しました。勘に頼る育種ではなく科学的な裏付けをもった交配が大切であることに気づき、染色体の調査から始めました。そして、バラデバ・ソーマやパーモス・グローリーなどの4倍体品種を発見し、早速、交配親として使用しました。
しかし、当時の4倍体品種は花こそ大きくて豪華でしたが、花付きの悪いものが多く、また遅咲きの傾向のものがほとんどだったのです。交配育種を重ね、この欠点を克服するまでに10数年の歳月を費やすことになりました。現在の改良された4倍体品種の花付きは、在来の2倍体品種に比較して数段良くなっています。中には茎の長さの80%以上に着花するものも珍しくありません。
(※写真:交配をして初花を心待ちにする山本二郎。播種(種まき)から開花まで5年もかかる。)
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一躍国際舞台へ
洋ラン業界から冷遇されていた山本二郎でしたが、育種を志してから7年後の1964 年 (昭和39年) 東京で開催された全日本洋蘭協会、日本蘭業組合主催の洋らん展において、ゴールデンウェーブNo.1が最高賞である農林大臣賞を受賞しました。これを受けても国内での評価はなかなか定まりませんでした。
しかしながら 「より美しい花を、より安く」をモットーに研究と努力を重ね、この頃までに既に20万株を超える実生苗を咲かせ、各地で驚くほどの高確率で優秀花を続出。花き業界や愛好家のデンドロビュームに対する概念を徐々に変えてきたことには確かな手ごたえを感じていました。
1969 年 (昭和44年)、山本二郎は当時、世界で最も権威あるとされていた、英国王立園芸協会(R.H.S)の展示会に出品することを思い立ちます。自ら作出したデンドロビュームの切り花を箱に詰めて、意気揚々とイギリスに降り立った彼は、ロンドンヴィンセントスクウェアの会場の豪華な雰囲気とその規模に圧倒され、一転して自らの無知を恥じるような気になったといいます。当時の日本での展示は、銀座の老舗デパートにおける展示会であっても、ただ、棚の上に並べるだけでしたが、イギリスの会場では、熱帯植物の間に鉢を見せないように自然に植え込むという、今でこそ国内でも一般的になりつつありますが、当時の山本二郎には想像もつかないような展示準備が進められていたのでした。場違いな自分に気づき出品をあきらめ、会場内を見学していた時、あるイギリス人が山本二郎の手にした荷物に目を留め、彼の辞退にもかかわらず、はるばる日本から来たのだからと、親切に花瓶を用意し会場の片隅に場所を作ってくれたのです。そして、審査結果の発表の日、思いもかけない結果が待っていました。全世界の有名ラン園が自信作を持ち寄った約5000点の出品物から選出された、5点の入賞花のうちの何と2点が彼の作品だったのです。切り花というハンディがありながらも、なお認めるに値するという素晴らしい評価が下されたのでした。
これは日本人初の快挙でもありました。やがて、このニュースが国内にも伝わると、その後の彼に対する扱いが手のひらを返したように変わったといいます。
(※写真:英国王立園芸協会(R.H.S)にて受賞の賞状を手に帰国後自宅にて撮影。)
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(※写真:英国王立園芸協会(R.H.S)にて受賞のメダル。)
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父から認められて
1974 年 (昭和49年)、山本二郎の洋ランの育種生産活動が高く評価され全国農業コンクールで農林大臣賞を受賞。 同じ年、日本農林漁業祭において農業コンクールの最高峰である「天皇杯」を受賞し、皇居にて、昭和天皇に拝謁の栄を賜りました。この当時、野菜や果実等の数多い生産業界の中で洋ラン栽培家が農業界最高の賞である天皇杯を受賞したことは大変意義深いものでした。
このように国内、海外からは十分すぎる賞賛と栄誉を送られた山本二郎でしたが、デンドロビューム栽培を始めた当初から父親がかなり反対したこともあり、山本二郎と父、重太郎との間にあまり会話はありませんでした。
1969 年 (昭和44年) 権威ある英国王立園芸協会(R.H.S)の展示会で入賞したときもあまり喜んだふうもありませんでした。帰国して、持ち帰った賞状を見せても、英語の横文字ということもあり反応は今ひとつでした。ところが、日本農林漁業祭において天皇杯を受賞し、菊の紋章のついたトロフィーをみた時にはさすがに嬉しかったようで、親戚がお祝いに駆けつけて来てくれた時、本当に嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして息子二郎の偉業を心から称えよろこんでいたといいます。約20年もの長い間の息子の人並みならぬ努力の様は父親として既に認めていたに違いありません。山本二郎本人にとっても父親に認めてもらえたことが数々のメダルや賞状よりも嬉しかったはずです。
(※写真:日本農林漁業祭の式典で受賞者を代表して壇上で挨拶。明治神宮会館にて)
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東洋のマジシャン
育種目標として花付きの次に、課題として着目したのが咲き方でした。山本二郎が改良に着手した頃の大輪系は、花梗が細長く、やや垂れ気味に咲くものが多かったのです。このため、せっかく立派な花を咲かせても、正面から観賞すると花の顔がよく見えませんでした。これを改めるには、まず花梗を太く丈夫にして、しかも上向きに咲くようにしなければと考え、この改良にも10年近い歳月を要しました。
次に考えついたのが、1方向に向いて咲く品種でした。このころのデンドロビュームの着花は、茎の左右に花梗が交互に出て、振り分け咲きとなるものが通常でした。そのため、出荷に際して、化粧鉢に3~4株くらい寄せ植えすると、花の半数は内側に向いて咲くことになります。それでは、たとえ1鉢に50輪咲いていたとしても、実際に観賞できるのは25輪になってしまいます。この間題を解決するために数多くの交配を重ね、遂に1方向咲きの品種の作出に成功しました。交配を手がけてから、実に25年目でありました。
この新品種の出現で、デンドロビュームの観賞価値は倍加されました。最初に発表したラブリーバージン・エンゼルは、典型的な1方向咲きで、多く人々を驚かせました。欧米諸国の人々の中には、太陽光線の方に向いて咲くのではないかと真顔で言った人もいました。太陽光線には関係ないことをずいぶん説明したといいます。よほど驚異だったと見えて、その後、彼らにMr.Yamamotoは「東洋のマジシャン」だとニックネームをつけられることにもなりました。
この段階で、花付きはよくなり、花梗も丈夫で正面に向いて咲くようになり、しかも全部の花が1方向を向いて咲くようになりました。これで一応の問題点は解決できたかに見えました。しかしまだ問題は残っていました。
(※写真:AOS(アメリカ蘭協会)の審査員との記念撮影に気さくに応じる様子。)
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より長く楽しむために
デンドロビュームは、改良の甲斐もあり豪華で美しい洋ランとしての地位を築きました。その改良には長い期間とコストが生じます。そのため一般の草花に比べると、価格も総じて高価です。山本二郎はその価格に対して、消費者の皆さんに納得していただける裏付けがもう少し必要であると考えたのです。それは、花保ちの問題です。せっかく高価な鉢花を購入していただいても、10日や半月で枯れてしまうようでは、納得してもらえません。花保ちの問題を克服するためには弁質の改良をはかり、せめて1ケ月以上、できれば2ケ月間くらいは咲き続ける品種を作出する必要があったのです。そこで失敗を繰り返しながら、徐々に改良を行ない、ついに現在のように2ヶ月以上、時には3ヶ月以上も咲き続ける新品種を作出することに成功しました。
こんなエピソードがあります。花保ちの改良に成功はしたものの白花系だけはなかなか思うように花保ちが改善されなかったため、これまでの経験と高度の技術を駆使し、紅紫花とピンク花の交配によって、花保ちの良い白花を作出しようと考え、交配作業をしていたときのことです。交配作業を見守っていたある研修生が「先生、そのような交配をすると、さぞや紅紫の立派な大輪 花が咲くのでしょうね」と言うのです。白花を作りたいと思って交配しているのだと説明すると、その研修生は「先生、冗談でしょう」と信用しません。その研修生が研修を終え、ふる里の熊本に帰郷することになった時山本二郎はこの実生苗を 数株プレゼントすることにしました。
それから2年目。元研修生から報告がありました。先生の言われた通り、白花の大輪花が咲いた、と。 この品種はホワイトポニーと名づけて、英国王立 園芸協会に国際登録しましたが、優良固体の固体名は彼の名前をとってアカマツとしました。この白花は、花保ちが極めて良いのが特徴でした。後にアメリカ蘭協会(AOS)の品評会にて入賞したDen.White Pony 'Akamatsu' AM/AOSです。
(※写真:次世代の新品種を作出すべく交配作業をする様子。)
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世界中で親しまれる彼の作品
デンドロ好きなら世界中で知らない人はいないであろうユキダルマ‘キング’AM/AOSは1970年代のベストセラー品種でありました。いまだ世界中で数多く栽培されており白花の代表種といえます。赤系ではユートピア‘メッセンジャー’ FCC/WOCやラブリーバージン‘エンゼル’、サンパウロ‘メモリー’、黄色系ではゴールデンブロッサムやピッテロゴールドなど数え上げるときりがありません。
もともとデンドロビュームを含めた洋ランは欧米諸国において育種改良され、わが国に輸入されたのが始まりでした。洋ラン界においては欧米諸国が先進国であった時代から今や日本の育種技術は急速に進歩し、特に山本二郎が携わったノビル系デンドロビュームついては世界の最高水準に達しました。1980年代以降になってからはアメリカやヨーロッパで普及している優良品種の90%が山本二郎によって作出された品種だったのです。そして欧米の洋ラン界においてはついには「Yamamoto Type(ヤマモトタイプ」、「Yamamoto Dendrobium(ヤマモトデンドロビューム)」という名称で、ひとつの独立したランのグループであるかのごとく呼ばれるまでに至りました。
日本から遠く離れた異国の地で花屋の店先に自身の作出したデンドロビュームを見かけた時や、日本生まれのデンドロビュームをそのままの名前でユキダルマ、カグヤヒメ、ホシムスメなどと呼んでいるのを耳にしたとき、日本で生まれた新しいデンドロビュームが世界中にわたり多くの愛好家に親しまれていることを実感しました。
(※写真:山本デンドロビューム園を訪れた外国からのお客様と自宅前で記念撮影。)
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(※写真:日本農林漁業祭で拝受した天皇杯と当時の皇太子殿下〔現天皇陛下)にご説明申し上げる山本二郎。) |
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洋ランの大衆化へ向けて
専門家を凌ぐ研究の末に
フランスのMorelの研究をきっかけに開発された生長点培養によるクローン植物の大量増殖法は,洋ランの分野において急速に普及しました。最初、1960年代の初期にフランスの洋ラン生産業者によってシンビジウムのメリクロン生産が実用化されて以来,カトレア,ファレノプシス系デンドロビューム,バンダ等多くの種属が組織培養できるようになりました。しかし一部には研究は行われたが,容易に実用化されない属もあったのです。例えばノビル系デンドロビュームやパフイオペディルムなどは,長期間にわたりどこの研究機関でもその成功例がなく、組織培養が困難とされていたのです。
山本二郎は,この頃までに数多くの育種改良を行っており,その育成した新品種を大量生産する手段として,組織培養に強い関心を持ち,国内はもちろん、アメリカ、フランス等、世界中に専門家を尋ね、組織培養の可能性を探りましたが、答えは一様に否定的でした。そこで、自ら研究に取り組むことを決意、専門書を読み漁り、数々の失敗と苦労を積み重ねた結果,ついに1973年にメリクロン培養に成功しました。専門の知識を持たない商業学校出の青年が専門の研究機関でさえ成しえなかったノビル系デンドロビュームのメリクロン増殖法を確立したのです。
この技術を応用することで遺伝的には親株とまったく同じ性質を持ったクローン苗を短期間で大量生産することが可能になったのです。これまで苗から開花までに5年もかかっていたものがわずか1、2年に短縮される品種も出てきました。「高価なランを大量生産して大衆化する。」という彼の夢の実現に大きく近づきました。
デンドロビュームの大量生産が可能になったことで、山本二郎は国内だけでなく、よりいっそう海外の市場を意識するようになりました。
(※写真:自ら開発したメリクロン技術で増やしたフラスコ苗をチェックする山本二郎。)
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世界市場を開拓
すでに1960年後半からアメリカ、ヨーロッパやオーストラリア、メキシコ、アルゼンチン、ブラジルなど海外へ向けてデンドロビュームの実生苗の出荷を行ってはいたが、切花や実生苗の出荷では彼が理想として抱いたような世界規模での高品質なデンドロビュームの生産には程遠かった。ところがメリクロン培養に成功し、大量生産への道筋が開けた事をきっかけにデンドロビュームの国際市場の流れは大きく変わり始めました。
イギリスでの入賞をきっかけに海外からの講演依頼の増えた山本二郎はブラジル・アルゼンチンへの講演旅行の途中に立ち寄ったハワイで、ランの立派な生育状況を目の当たりにし、栽培に適した気候のハワイでの生産を思い立ち、農場開設を決意。この当時、ハワイに進出する日本企業はほとんどなく、農園の立ち上げには大変な苦労がありました。親戚知人もいないハワイに単身乗り込み、自ら役所に通い詰めて1974 年 (昭和49年)初の海外農場「YAMAMOTO DENDROBIUMS HAWAII INC.,」を設立しました。温暖な気候を生かし、アメリカ本土への輸出基地として生産を開始したのです。
彼の作り出した優秀なデンドロビュームの世界進出ははさらに加速することになりました。
1978 年 (昭和53年) タイ、バンコクで開催された第9回世界らん会議の大展示会にて、ユートピア‘メッセンジャー’が最高賞のFCC/WOC (ゴールドメダル)を受賞。 この当時、タイには安価な労働力や洋ラン栽培に適した気候を求めて海外の洋ラン業者が日本向けの生産基地として多数進出してきた頃でした。世界らん会議のために訪れたタイで、この状況を目の当たりにした山本二郎はこれに遅れをとることなく、すぐさまタイ進出を決意。
タイ訪問から4年後の1982 年 (昭和57年)、欧米向けのメリクロンによる苗生産の拠点としてタイ国チェンマイに第2の海外農場「YAMAMOTO DENDROBIUMS THAILAND」を設立。これにより苗の生産コストを抑え、安価で大量にそして安定してデンドロビューム苗をヨーロッパ各地、ハワイ、北米に容易に供給できるようになりました。
こうして、日本でより優れた新品種を改良し、タイの農場でメリクロン増殖を行い、ハワイの農場で栽培。そして世界の市場へ届けるという国際分業システムを確立しました。
(※写真:設立当初のハワイ農場にて。)
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(※写真:タイ農場で増殖されるフラスコ苗と優良品種の苗が大量生産されていく。) |
育種家としてのあくなき情熱
終わりなき育種人生
デンドロビュームは今や園芸作物として花き産業の中で立派な地位を築いています。これは山本二郎によってデンドロビュームを園芸作物として確立すべく、高い育種目標と妥協なき厳しい品種選抜で商品性を追求してきた結果に他なりません。
昨今、生産の増加や景気の影響による販売価格低迷で、生産農家が独自に交配してオリジナル品種として販売しようとする時代ですが、山本二郎が育種を志した時代には今のように優秀な遺伝子を持った素材となるデンドロビュームはありませんでした。まさに無からの創造であり、10年、20年先の交配目標に向けて何世代も交配を繰り返す努力の積み重ねでした。
デンドロビュームの育種は、交配から初花を見るまでに5年の年月がかかります。そして一つの優れた品種を作出するには、3代から4代の交配を重ね、15年ないし20年の歳月を要することが多く、良い品種を作出するには、咲いても脚光を浴びることのない基礎交配が数多く必要なのです。実用品種として発表し日の目を見るのはほんの一握りの品種に過ぎないのです。
山本二郎はある雑誌の取材にこう答えています。
「育種とは頂上のない山に登るのと同義であり、利害を考えたらとてもできる仕事ではありません。しかし、私の作出した品種が世界中に広がり、その美しさで人々の心を和ませることができたなら、育種家冥利に尽きるものと、私は考えています。」
1991年 (平成3年)デンドロビューム育種と生産における山本二郎の長年の功績が認められ「黄綬褒章」を拝受。2001年 (平成13年)には「勲五等双光旭日章」も拝受しました。
国内外から数々の栄誉を賜り、「高価なランを大量生産して大衆化する。」「美しいデンドロビュームで世界中の窓辺を飾りたい。」とする彼の願いはもはや達成されたように見えます。しかし常に高い交配目標を掲げて挑戦し続けた彼の育種人生に終わりはありません。
取材の際に「これまで最高の品種は何か?」と問われることがよくあるが、そんな時、山本二郎は必ずこう言います。
「いまだに満足した作品はありません。いいものができたと思っても、翌日みると欠点ばかりが目についてしまう。たしかにそれでも世界最高点をとれる作品であるが、自分では納得できない。昔は最高の作品ができれば、その作品に自分の名前をつけようと思っていました。いまでは、そんなことは一生かかってもできないというのがわかった。」
このあくなき探究心こそ山本二郎を「世界一のデンドロビューム育種家」の座へ導いた原動力に違いない。
山本二郎は 今もなおまだ見ぬ美しいデンドロビュームの誕生に夢を馳せ、さらなる品種の開発に情熱を注ぐとともに後進の指導に尽力しています。
(※写真:タイの山岳地帯で野生ランの調査をする山本二郎。)
2022年11月16日 山本二郎は老衰のため逝去しました。(享年95歳)
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(※写真:「勲五等双光旭日章」の賞状と勲章。いまなお美しい花への情熱を絶やさない山本二郎。)
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※山本デンドロビューム園の作出品種については「品種改良の歴史と代表的な品種」からご覧ください。
※デンドロビューム育種家山本二郎については「育種家 山本二郎のあゆみ」と「山本二郎 年譜」をご覧ください。
※RHS登録全品種については「山本デンドロビューム園の登録品種」
からご覧ください。